徒花に実は生らぬの語源・由来
「徒花」とは、咲いても実を結ばずに散る花のこと。いくら美しい花を咲かせようとも、実を結ばない徒花では仕方がないということから。出典:徒花に実は生らぬ - 故事ことわざ辞典
「徒花」とは、咲いても実を結ばずに散る花のこと。いくら美しい花を咲かせようとも、実を結ばない徒花では仕方がないということから。出典:徒花に実は生らぬ - 故事ことわざ辞典
「鎮守」とは、土地や施設などを守護する神のこと。ここでの「蛇」は「邪悪なもの」をさし、神聖な場所であっても蛇のような邪悪なものが棲みついているということから。出典:鎮守の沼にも蛇は棲む - 故
「四百四病」とは、仏教語で人間がかかる一切の病気のこと。人体は、地・水・火・風の四大から構成されていて、その調和が破れると、それぞれ百一の病気を生ずるとされる。恋の病は、その四百四病に入らない
幕末の志士、吉田松陰が二十九歳で処刑されたときに詠んだ「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」という辞世の句に通じる。出典:親思う心にまさる親心 - 故事ことわざ辞典
寒く厳しい冬が来たということは、暖かい春が目の前まで来ているということから。イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の一節「If winter comes, can spring be far
「意気」とは、やり遂げようとする積極的な気持ちのこと。人は金銭などの欲や、名誉のために行動するものではないといういましめ。魏徴の詩『述懐』に「人生意気に感ず、功名誰か復論ぜん(人生は心意気を感
『論語・里仁』にある孔子の言葉で、人としての道を追求することの大切さをあらわす。「あした」は元々「朝(あさ)」を意味した言葉で、「朝」と書いて「あした」と読む。ここでの「道」とは、物事の道理、
『春秋左氏伝・宣公三年』にある、天下を取りたい楚の荘王が、定王をあなどって無礼にも、周王室の宝物である九鼎の軽重を問うたという故事に由来する。「鼎」とは、古代中国で煮炊きに用いた三本足の青銅器のこ
昔、長野の善光寺近くに住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見た。その牛を追いかけるうちに善光寺へ辿り着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するよ
「成敗」とは、処罰という意味。戦国時代から近世初頭での「喧嘩」は、武力による争いを意味し、武力で抗争した者は、言い分の理非を問わず処罰された。現代では「喧嘩」の意味が広がり、武力を伴わない対立
「濫」とは、浮かべる、溢れるという意味。「觴」とは、さかずきのこと。孔子が弟子の子路を戒めた言葉「昔者、江は岷山より出ず。その始めて出ずるや、その源は以て觴を濫ぶべし(昔、長江は岷山から流れ出
「創業」とは、新しく事業を始めること。「守成」とは、築き上げたものを守り続けていくこと。国家を建設することよりも、それを維持することのほうが難しいという意からできたことわざ。唐の太宗が側近