捨てる神あれば拾う神ありの語源・由来
世の中には様々な人がいて、自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。日本には八百万の神がいるのだから、不運なことや非難されるようなことがあって
世の中には様々な人がいて、自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。日本には八百万の神がいるのだから、不運なことや非難されるようなことがあって
散る花には、流れる水にそって流れて行きたいという気持ちがあり、流れる水には散った花を浮かべて流れて行きたいという気持ちがあることから。出典:落花流水の情 - 故事ことわざ辞典
日頃からよく眠るのは健康な証拠で、すくすくと丈夫に育つということ。出典:寝る子は育つ - 故事ことわざ辞典
「艱難」とは、困難にあって、苦しみ悩むこと。苦労して地中から掘り出された粗玉が、磨かれて美しい玉になるとう意味から。西洋のことわざ「Adversity makes a man wise.(逆境
「夜郎」とは、漢の時代の国名。中国の南西にあった、未開部族の国。「自大」とは、自ら尊大な態度をとり、威張ること。昔、夜郎の国王は、漢帝国の大きさを知らずに自分の国だけが大国だと思い込んでいた。
「曲学」とは、真理を曲げた学問。「阿世」とは、世に阿る(おもねる)こと。漢の時代、漢の武帝に召し出された轅固生が、儒学者の公孫子に言った言葉が由来とされる。『史記・儒林列伝』に「公孫子、正
君主がその美しさに夢中になって、城を傾けて(滅ぼして)しまうことから。『漢書』に「北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く。寧んぞ傾城と傾国とを知らざらん
天の神様は一人の人間だけに、いくつもの美点を与えることはしないから、よいところばかり揃った完璧な人間などいない。異なる二つの天賦の才を持つことは有り得ず、人にはそれぞれに長所も短所もあるということ
「赤子」とは、赤ん坊・赤ちゃんのこと。赤ちゃんの手をひねるくらい簡単にできるということで、力の差が非常に大きい場合に用いられる。また、力の強さや能力の高さが、きわめて大きいという意味を含んだ場
福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭にある言葉。この先には続きがあり、現実は平等になっておらず、差別があると言っているため、本来の意味で使われていないとされることもある。しかし、「天は人の上に人を
「八丁」とは、八つの道具を使いこなす程達者ということで、物事に巧みなことを表し、「八挺」とも書く。また、櫓(ろ)が八つある八挺小舟を自由自在に操ることからとする説もある。八つの道具を使いこなす
「笑う」は、「あざ笑う」「せせら笑う」など、馬鹿にする意味。予測できるはずのない未来のことを言うと、鬼でさえおかしくてせせら笑うという意味から。先々のことをのん気に話す人をからかうような時に使