天上天下唯我独尊の語源・由来
釈迦が誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の手で天を、一方の手で地を指して唱えたという『長阿含経』の話に由来する。「我」は釈迦本人の意味ではなく、個々人であるとする。それぞれの存在が尊いものであ
釈迦が誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の手で天を、一方の手で地を指して唱えたという『長阿含経』の話に由来する。「我」は釈迦本人の意味ではなく、個々人であるとする。それぞれの存在が尊いものであ
「痛い」には、精神的につらい意味がある。そのつらい原因が聞いている内容にあるため、「耳が痛い」という。
鏡に映った花も、水に映った月も、目には見えていても手に取ることはできないことから。
17世紀の哲学者、数学者、物理学者であるパスカルの著書『パンセ』にある言葉「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いものにすぎない。しかし、それは考える葦である」から。
他人を馬鹿にしたり、批判的に用いるほか、自ら謙遜しても言う。「横好き」とは、上手でもないのにむやみに好むこと。「横」には、無関係の立場、外れたところの意味があることからいう。
「棒に当たる」の意味を「人に棒で殴られる」と解釈し、本来は犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であったといわれる。しかし、何かを
「天上天下唯我独尊」の略。釈迦が誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の手で天を、一方の手で地を指して唱えたという「長阿含経」の話に由来する。「我」は釈迦本人の意ではなく、個々人であるとする。
「人事」とは、人間の力で出来る事柄。「天命」は、天が人間に与えた使命の意。全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、そんな結
「為す」は、動作や行動をするという意味。どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するということで、やる気の大切さを説いたことば。江戸時代後期、米沢藩主の上杉鷹山が家臣に「為せば成る、為
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が
せわしないの「ない」は否定形ではなく、その状態にあることを強調し、形容詞を作る接尾語の「ない」。そのため、せわしないは「せわし(忙し)」の状態にあることを表し、「せわしい」と同じ意味になる。形
富士見は、1956年(昭和31年)、入間郡の鶴瀬村と南畑村、北足立郡水谷村が合併して誕生した「富士見村」から見られる地名で、合併時の新命名である。1964年(昭和39年)に町制を施行して「富士見町