目黒区の語源・由来
目黒の由来には、瀧泉寺の通称「目黒不動尊」に由来する説がある。寺の通称は不動尊像の目が黒かったことからと言われるが、地名より古い呼称であった確証はなく、後付けの可能性もある。その他、目黒に
目黒の由来には、瀧泉寺の通称「目黒不動尊」に由来する説がある。寺の通称は不動尊像の目が黒かったことからと言われるが、地名より古い呼称であった確証はなく、後付けの可能性もある。その他、目黒に
平塚は、鎌倉初期から見える地名。当地には、天安元年(857年)、桓武天皇三世の孫にあたる高見王の娘 政子(真砂子)が、京都から東国へ下る途中、この地で亡くなり、棺を埋めて墓とし塚を築いた。やがて、
郡山は、安積郡の郡衙(ぐんが)の所在地であったことに由来する地名と思われる。郡衙とは、律令制下の郡の役所のことで「郡家」ともいう。諸国に設置された役所は「国衙(国府)」という。
豊中の地名は、1889年(明治22年)、豊島郡の新免村・南轟木村・桜塚村・山ノ上村・岡町村が合併して誕生した「豊島郡豊中村」に由来する。豊中村は、豊島郡の中央に位置することに因む。1896年(
梁山泊は、中国山東省梁山県の南東、梁山の麓にあった沼沢の名前であった。古来、梁山泊は盗賊や謀反軍の根拠地となっており、宋江の一味がここを拠点に反乱を繰り返した故事が『水滸伝』に記されてから、豪傑や
盛岡の地は、元々「不来方(こずかた)」という地名であった。江戸初期、藩主の南部利直が「不来方は心悪しき文字で縁起が悪い」として、城があった小高い岡から「森ヶ岡」や「森岡」と呼ぶようになった。そ
四万十市は、2005年(平成17年)、中村市と幡多郡西土佐村が合併して発足した際の新命名で、市の中心を流れる「四万十川」に由来する。四万十川の語源には、数多くの川が合流している川の意味で「四万十の
所沢の由来は、ヤマイモ科の「トコロ(野老)」の沢地のことと考えられている。これは、京都の僧侶 道興准后が『廻国雑記』という紀行の中で、所沢の観音寺(現在の新光寺)でもてなしを受けた感慨を「野遊のさ
宮崎の地名は、奈良時代に「宮埼郡」、平安時代に「宮崎郡」で見られる。宮崎の由来詳細は、「宮崎県」にて解説。
一宮の名は、尾張国の一の宮である「真清田神社」が鎮座することに因み、鎌倉初期から見られる。一の宮とは、諸国の神社のうち、最も由緒があり、一番に格付けされた神社のこと。
水戸は南北朝期頃から見える地名。那珂川と千波湖に挟まれた細い台地にあり、水路の出入り口となる狭い所なので、水戸は「水の門」に由来する名と考えられている。
福山は、水野勝成の命名による近世の城下町名に由来する。1619年、備後に入封した水野勝成は、3年かけて深津郡野上村の常興寺山に築城し、「福山」と名付けた。福山城は「久松城」や「葦陽城」ともいう