多治見は、永徳3年(1383年)に「多治見郷」で見えるのが古い。
多治見の地名の由来には、この地に移り住んだ部民が怖い存在であることを示すために、「タジヒ部(タジヒはマムシの古名)」と名乗ったことに由来する説。
仁徳天皇の皇子(反正天皇)を別名「多遅比瑞歯別命(たじひのみずはわけのみこと)」と言い、その教育にあたった官位は「多遅比部(たちひべ)」と名乗っていたことから、その一族が移り住んだことに由来する説。
天皇の食器や調理に関わっていた役職は「丹比部(たじひべ)」と名乗っており、その一族が移り住んだ説。
丘陵の上の意味で、「タチ(高くなった所)」と「ミ(接尾語)」の「タチミ」が転じた説。
多治見市を東西に流れる土岐川は、愛知県と岐阜県の境で曲がりくねっており、たじたじと足踏みするような川の流れから「たじみ」になった説。
竹の密集した所で「タシミ(密生)」の意味など、多治見の由来には非常に多くの説があるが、決定的な説はない。