枯れ木も山の賑わいの語源・由来
何もない殺風景なはげ山よりも、たとえ枯れ木でもあれば山の趣を添えてくれ、風情を賑わしてくれるということから。自分のことを謙遜して言う言葉で、老人が若者に混じって何かをする際などに多く用いる。出
何もない殺風景なはげ山よりも、たとえ枯れ木でもあれば山の趣を添えてくれ、風情を賑わしてくれるということから。自分のことを謙遜して言う言葉で、老人が若者に混じって何かをする際などに多く用いる。出
狐や狸に化かされないためには、眉に唾をつけると良いという俗言から、疑わしい物に騙されないために用心することをいう。出典:眉に唾をつける - 故事ことわざ辞典
大きいものはそれ自体の役割の他に、小さいものの代わりとしての役目も果たすが、小さいもは大きいものの代わりにはならない。小さいものより大きいもののほうが、幅広く役に立つということ。『春秋繁露』に
鳶も鷹も同じ仲間で、姿や大きさも似ているが、鳶を平凡なものとし、鷹をすぐれたものにたとえている。出典:鳶が鷹を生む - 故事ことわざ辞典
「羹」とは、野菜や魚肉を入れて作る、熱い吸い物のこと。「膾」とは、現在は酢などで味付けをした冷たい和え物のことだが、そもそもは獣や魚の肉を細かく切った肉のことをいった。熱い吸い物で口をやけどし
良いと思ったことは、躊躇せずただちに取りかかるのがよい。好機は逃がすべきじゃないという教え。出典:善は急げ - 故事ことわざ辞典
水に棲む魚がその水に好意を持てば、水もその魚に好意を持つことから。本来は「魚、心あれば、水、心あり(魚が水に親しむ心があれば、水もそれに応じる心がある)」であった。この言葉が広まっていくうちに
二回失敗して三度目に挑戦する時や、三度目に成功した際に使う。「三度」になった由来は定かではないが、多過ぎず少な過ぎないちょうどいい数字が「三」なのであろう。他にも「仏の顔も三度」や「二度あるこ
木の性質と竹の性質は異なり、木に竹を接ぎ木してもなじまないことから、前後が不揃いであったり、物事の調和や釣り合いがとれなく、不自然なことのたとえとなった。出典:木に竹を接ぐ - 故事ことわざ辞典
英語の「Strike while the iron is hot.」を訳したことわざ。鉄は熱してやわらかいうちには、打っていろいろな形にできることからいう。人間も、純粋な心を失わず、若く柔軟性
どんぐりは形も大きさもほぼ一様で差がないので、背比べをしても優劣が決められないことからいう。出典:どんぐりの背比べ - 故事ことわざ辞典
不用意な発言は身を滅ぼす要因となることもあり、言葉が自らに災難をもたらすことも多い。うかつに言葉を発するべきではないという戒め。『古今事文類集・後集』に「口は是れ禍の門、舌は是れ身を斬るの刀なり(