明治初期頃の新聞は、「大新聞」と「小新聞」という区別があった。
呼称は紙面の大きさの違いによるものだが、記事の内容や読者層も異なっていた。
大新聞は知識人や旧士族が対象で、政治議論を主に編集された。
小新聞は大衆向けで、かわら版や洒落本の流れに属する読み物が中心であった。
明治20年代に入ると、「独立新聞」と呼ばれる大新聞と小新聞の両方の性質を持った新聞が創刊された。
独立新聞のひとつである『万朝報(よろずちょうほう)』が、四面(4ページ)あるうちの三面(3ページ目)に著名人のスキャンダルなど社会の雑多な記事を掲載したことから、社会面の記事は「三面記事」と呼ばれるようになった。
その後、他の新聞も同じような構成で編集するようになり、「社会面の記事=三面記事」で定着した。