瓜田に履を納れずの語源・由来
「瓜田」とは、瓜の畑。「履を納れず」は、靴に足を入れるという意味。瓜畑で靴が脱げても、瓜を盗むのかと疑われる恐れがあるので、屈んで靴を履き直すようなことはすべきではないということから。『文
「瓜田」とは、瓜の畑。「履を納れず」は、靴に足を入れるという意味。瓜畑で靴が脱げても、瓜を盗むのかと疑われる恐れがあるので、屈んで靴を履き直すようなことはすべきではないということから。『文
「飛語」は「蜚語」とも書く。「流言」も「飛語(蜚語)」も根拠のないうわさの意味。「流言」は『礼記・儒行』、「蜚語」は『史記・魏其武安侯伝』に見られる言葉で、同じ意味であることから合わせて用いら
世阿弥が芸事を極める上での心構えとして残した言葉。『花鑑』に「当流に万能一徳の一句あり。初心不可忘」とある。「忘る」は「忘れる」の文語形。出典:初心忘るべからず - 故事ことわざ辞典
すぐれた者を白昼活動する鳥、つまらない者を暗くなってから活動するコウモリに当ててたとえたもの。出典:鳥なき里の蝙蝠 - 故事ことわざ辞典
囲碁や将棋で、下手な者がいくら長時間考え込んでも良い手が浮かぶことはなく、まるで何も考えずに休んでいるようなものだということから。出典:下手の考え休むに似たり - 故事ことわざ辞典
しなやかな柳の枝は、雪が降ってもその重みに耐えて折れることがない。対して、堅い木は雪の重みで枝が折れることもあることから。出典:柳に雪折れなし - 故事ことわざ辞典
「軌」は、車輪の跡、わだち、車の輪と輪の間隔の意。車輪の通った後を同じにするの意から、考え方や方向を同じくするということ。各地の車の両輪の幅を同一にするの意から、国が統一されていることを意味す
「得手」とは、最も得意とすること。追い風に帆を揚げるように、得意とすることを発揮できるチャンスに恵まれたので、それを逃がさずに利用して進むことから。出典:得手に帆を揚げる - 故事ことわざ辞典
「体」は、本質、実体の意味。物や人の名前は、その中身や性質を的確に表すことが多いということ。出典:名は体を表す - 故事ことわざ辞典
貧乏をすると、毎日その生活のことばかり考えるようになるから、人は知恵や頭の回転が衰えてしまい、賢い人でも愚かになるという意味。また、暮しが貧しくなれば、心までも貧しくなるものだということ。出典
「一視」とは、同じように見るの意。「仁」は思いやり・優しさのことで、「同仁」は差別なく、平等に愛することを意味する。唐の韓愈の『原人』に「聖人は一視にして同仁、近きに篤くして遠きを挙ぐるなり(
同じ釜で炊いた飯を食べることから。一緒に生活をしていなくても、同じ職場で働くなどして、苦楽を共にした間柄に用いることもある。出典:同じ釜の飯を食う - 故事ことわざ辞典